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三重豪NZ協会メールマガジン                          

  季刊 サザンクロス三重

         
Southern Cross MIE

                  創刊号 2017年3月8日(通巻1号)

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もくじ
創刊にあたって               会長       宮本  忠
ご当地グルメで地域の誇りづくり!    津ぅの      増田 芳則
タスマニア田舎のホテル                   稲垣  巧
シンガポールの友情            三重県出身  岡  秀晃


創刊にあたって              会長  宮本 忠

 英語に次のような言葉があります。
 T h i n k G l o b a l l y , A c t L o c a l l y .
 グローバル( 地球的規模) で考え、地域( 足下) で行動しよう、ということでしょうか。
 「人は社会的動物」です。自尊とともに他尊、自民族尊とともに他民族尊そして自国尊と共に他国尊が不可欠です。「もちつもたれつ」、「共存共栄」です。つまり「人間は人の間で生きる存在」です。
アメリカの新大統領は今のところこのあたりに弱点が見えています。メルマガは小なれど、エラそうにいえば、会員、非会員の枠を超えて「国際のプラットホーム」でありたい。皆様方のご理解、ご支援とご協力をいただけますように。


ご当地グルメで地域の誇りづくり! 津ぅの 増田 芳則

 「津ぅのうなぎ」「津ぎょうざ」が、現在、三重県津市を語るトップキーワードです。いずれもご当地グルメとして注目されており、w e bはもちろん、テレビやラジオ、新聞雑誌などのメディアで、たくさん取り上げられています。このため、「津といえば何があるの」という言葉に対して、誇りと自信をもって「うなぎ! 」「津ぎょうざ」と言う人が、1 0年前、2 0 0 6年当時に比べたら圧倒的に増えてきたと思います。
 「何があるの? 」とか「どういうところ? 」と聞かれるときは、「その土地で、あなたのお勧めは何なの? 」と聞かれていると同義だと思います。このお勧めの中に、2 つのご当地グルメがたった1 0 年間で大きな存在感を示すことは、実に誇らしいことです。「津ぅのうなぎ」に関していえば、津は昭和4 0 年ごろまではうなぎの養殖が盛んでした。三重大学の周辺にも養殖池がありました。現在、それは昔の地図や、わずかな池の跡地にしか面影を探すことはできません。
 それであっても、うなぎの生産地と消費地が同じ場所だった利点の名残りで、うなぎ専門店がとても多く、安くておいしいうなぎを食べられることが特徴でした。そのため、一般的には「ハレ」の料理屋でもあるうなぎ屋さんは、津では普段の外食の選択肢のひとつであり、商談や法事、宴会、忘新年会、果ては運動会の打ち上げにも使われるものなのです。まさに津独特の「うなぎ食文化」を形成しているのです。
 この食文化について、当地の津市民はなんの疑問も持たず、ただなんとなく「うなぎ屋が多い、おいしい、安いといわれればそうかもしれない」と捉えがちであったと思います。それが、この1 0 年で大きく変わりました。きっかけは、2 0 0 6 年3 月に発行した津のうなぎ食べ歩きマップ『うまっぷ』でした。当たり前すぎて、誰もP R をしてこなかった食文化は、パンフレットという形にしたことで、メディアにも地元にも新鮮な感動と驚きを与え、関心を持たれるようになりました。
 当時、まだ「ご当地グルメ」という言葉はなく、かろうじて「B 級グルメ」という言葉がありました。津のうなぎは「B 級」という言葉にはあてはまらない感覚があり、考えに考え、「ソウルフード」という言葉をあてはめ、「津のソウルフード」と打ち出したことも、心を掴んだ理由だと思います。また、発行当初は「津のうなぎ」「津のソウルフード」と表記をしていましたが、そのうち仲間から「地元の発音は『津』ではなく、『津ぅ』やろ。『通( つう) 』と『津ぅ』をかけて、『津ぅのうなぎ』にしよに」というアイデアが出され、『津ぅのうなぎ』『津ぅのソウルフード』という言葉でP R をするようになりました。
 これが理由かはわかりませんが、「津」を「津ぅ」と発音しているという地元民の気づきにつながったようで、このあたりから各種メディア、S N S などでも「津ぅ」という表記が現れるようになりました。
一つの食文化を掘り起こし、様々な活動の結果、1 0 年で「津ぅにはなんもない」という言葉が、「津ぅのうなぎがえぇに」という言葉に変わっていきました。地域の誇りの食文化であると、認識されるようになったのです。
もうひとつ、津ぅのご当地グルメとして「津ぎょうざ」があります。直径1 5 c m の大きなぎょうざの皮で包んだ揚げぎょうざです。これは、元々は津市の学校給食メニューであり、給食でしか食べられない「幻のグルメ」でした。これも、津ぅのうなぎ同様、発掘されたご当地グルメです。たまたま学校給食の調理員さんとの会話、「一番人気のある給食って何なん? 」「そら、津ぎょうざやに! 」というたったこれだけのやりとりから発掘につながりました。今では、津ぎょうざを通じてまちおこしをする市民団体「津ぎょうざ小学校」が、メディアが注目する「ご当地グルメでまちおこしの祭典B - 1グランプリ」に出展し、全国大会では3 位を獲得、その後の東海北陸支部大会では優勝するほどになり、名実とも、津を代表するご当地グルメ「津ぎょうざ」として発展していきました。
 「津ぅのうなぎ」にせよ、「津ぎょうざ」にせよ、簡単だったことは何一つありませんが、その過程で気づかされたことは、「地域の誇りづくり」の重要性にほかなりません。自分が働く会社組織に置き換えれば、わかりやすいと思いますが、自分の会社を、仕事を誇りに思うからこそ、よりよい商品を、サービスを提供しよう、もっと発展させよう、もっと組織にも、社会的にも貢献しようということにつながるのです。それを地域に置き換えれば、まさに地域を誇りに思う心が、よりよい地域にしようという行動を起こし、それがまさに「地域の自治」へとつながっていくのです。
 ご当地グルメが、地域の誇りになり、地域の自治につながる。当初はそこまでの考えはありませんでしたが、こうした思考をすることで、ご当地グルメなどの「食」の活動がもっとおもしろく、そして将来性のある「おいしい」ものと捉えることができるようになりました。
 みなさんも「おいしい」取り組みをする三重県の津ぅを、これからもぜひ注目してください。そして、津にお越しの際は、是非「津ぅのうなぎ」と「津ぎょうざ」を召しあがってください。
 ( 筆者紹介1 9 8 0 年生まれ。静岡県牧之原市出身、三重大学人文学部社会科学科卒、津市役所職員( 収税課) 。業務とは無関係に、市民活動として各種まちおこし活動を行う。ローカルヒーロー「津に来て戦隊ツヨインジャー」発起人。津ぅのうなぎプロジェクト主宰。津ぎょうざ小学校音楽委員。飲み歩き・食べ歩きイベント「津ぅのドまんなかバル」実行委員長。)


タスマニア田舎のホテル             稲垣 巧

 「タスマニア」、オーストラリア大陸の南にある北海道とよく似た島です。何があるのですか?サイモン君の故郷があります。平成1 0 年( ‘ 9 8 ) 1 2 月1 7 日から年末の3 1 日まで1 5 日間の日程で、同僚の前川さん、私の息子の雄哉、知人の娘の愛さんと私の4 名で出かけました。雄哉と愛さんは、ホームステイでタスマニアの生活やホストファミリーとの交流で楽しく過ごしました。我々は、レンタカーで島を周遊し、自然の美しさを満喫するとともに、旅先で出会った人々のタスマニア人らしき気質に魅了されました。周遊ルートは、ホバート→ ロンセストン→ クレイドル山→ ストローン→ ポートアーサー→ ホバートでした。
 さて、ルート上の観光ポイントやアクセスは専門誌に任せるとして、ここでは私の忘れられない滞在経験の一部をお話します。
1 2 月2 4 日、クリスマスイブの宿泊は、田舎の小さな町のホテルでした。まるでウエスタン映画の「夕日のガンマン」に出てくるような木造2 階建てホテルでした。イブの日なので前日に予約すると、「5 時までに到着し、7 時までに夕食を済ませるように」とのことでした。
 ホテルに到着すると、早速夕食で、レストランにいるのは私たち2人だけでした。部屋の鍵を受け取るとき、「ホテルの出入りは、玄関ではなく2 階の外階段を利用し、自動ロックだから必ず鍵をもって出るように」と注意されました。また、「翌朝ホテルを出発する時には、必ず鍵を置いていくように」とも言われました。
 まさかと思っていましたが案の定、午後7 時から翌朝我々が出発する時でも、ホテル内には管理人はおろか猫一匹いませんでした。他にも、「シャワーはボイラーを止めるから早い目に使って」とか、「朝食は食堂にあるものならなんでもいいから、勝手に食べといて」と言われました。なんと、「この大らかさ」この対応はおもしろい。とても気に入りました。
クリスマスイブが日本の大晦日と同じとは言え、「お客相手の商売で、日本にはない対応だ。」と思いつつも、ここはタスマニアだからと納得しました。しかし、よくよく考えるとホテルの対応に不自由はなかったし、お客でも任せるところは任せておいて、特別な時間を大切にしようとする人の思いを感じました。
 自然がいっぱいのタスマニアで、比較的時間を気にせず、予定に縛られない滞在は、私に「大切なものは何? 」と問いかけてきたような気がしました。
今回の旅行では、サイモン君の家族、三重大学に留学していたサイモン君、ヒース君、リサさんには、大変お世話になりました。ありがとうございました。
 (筆者紹介1 9 5 4 年生まれ。元地方公務員、国際交流担当をきっかけに海外に興味。日本語教室を通じて多数の外国人と知り合う。昨年までの渡航回数7 5 回。)


シンガポールの友情      三重県出身  岡 秀晃

 昭和5 0 年、1 9 7 5 年夏、私は初めてシンガポールのパヤレバにあった国際空港に到着しました。1 9 8 1 年に完成する現在のチャンギー空港に移転する数年前のことです。日本の航空会社は日本航空が海外への唯一の航空会社でした。航空機の主流はD C 1 0 型だったですが、最大級のジャンボ・ボーイング7 4 7 型に乗りたくて、世界で最も多くのネットワークを持つアメリカのパン・アメリカン航空を選びました。従来の機種に比べて桁外れに大きくあたかも応接室が飛んでいるかのようでした。空港から市内へはバスとタクシーがありました。地理にも不案内だったのでタクシーに乗りました。タクシーはどれもイギリス製だったと記憶しています。私が乗ったタクシーは運転席の前のダッシュボードに小さな扇風機が回っています。気温3 3℃ の南国ですが冷房はありません。興奮していたせいであまり暑いとは思わなかったです。以前に先輩が滞在中数日間乗ったタクシーの運転手を記憶していて、私の初めての渡航のために推奨してくれたタクシーに乗りました。1 年振りのことで当時の運転手と連絡がつくだろうかと不安に思いながら、メモしてくれた運転手の自宅の住所に予約の手紙を出しておきました。返信の手紙はありませんが、空港のタクシー乗り場で待っていると、マレーシア人の運転手が私に向かって手を大きく振っているのに気が付きました。市街中心部のビルは隠れんばかりの大きな樹々で覆われ、至る所が緑にあふれていました。私も数日間の滞在をこのマレーシア人ドライバーに任せることになりました。お蔭様で親切な運転手から書籍ガイドブックに無いシンガポールの歴史や生活ぶりを知ることもでき貴重な経験となりました。その後しばらくして1 9 9 1年から約5年間シンガポールの駐在として家族とともに滞在しました。初入国から1 6年の経過ですが、見違えるほどの街の景観にびっくりしてしまいました。今もさらに立派な空港に発展していますが、空港は近代的なチャンギー国際空港に移転したばかりの時でした。ホテルはインターナショナルというのはわずか数軒だったです。リー・クアンユー大統領率いるシンガポールはルック・イースト政策の推進真っただ中で産業、文化、生活様式など様々な面で日本を見ようと言うことであったように聞いていました。
 帰国してシンガポールとの文化交流をしている民間の協会に友人の紹介で入会できました。この協会で活躍中の時ですが、名古屋で開催された世界万国博覧会がやってきました。この協会の趣旨にふさわしくシンガポールへ協力する方法がないかと真剣に考えていたところ、シンガポール共和国が博覧会に出展することを知りました。協力の趣旨を申し出てようやく協力できることになりました。シンガポール共和国館開設の準備のお手伝いに奔走した結果、連日満員の盛況となりお蔭で会期中も協力させていただき協会の会員全員が大変嬉しい且つ記念すべき活動となったのです。暫くして、シンガポール共和国からお礼の言葉をいただくことになりとても晴れやかな気持ちで一杯になりました。


編集後記
 サザンクロス創刊号をお届けします。みなさまのアドバイスでよりよいものにしていきたいと存じます。ご意見をお寄せいただきますようお願いいたします。
このメールマガジンはみなさまの原稿で構成します。執筆をお願いすることもあると思いますが、ご快諾いただきますようお願いいたします。また、オーストラリア、ニュージーランドに関すること投稿歓迎します。1 , 2 0 0字程度で、m a s a h i k o t a t e @ y a h o o . c o . j pにメールで送信してください。




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